「何を読むか」は「どう生きるか」ということの決して小さなポーションではないだろう。読書以外にこれといって楽しみのない私という存在を考えるときにいつも付き纏う問題だ。登山をしていた時期は山の本しか読まなかった。山に行けなくなってからは歴史小説を読んでいた。職場を離れてからは歴史や思想のポーションが増えた。
酒縁社会との断絶
正月の休みを使ってしたことは買い物のために歩くことだった。買い物とは日用品と本だったことを考えれば、生活そのものだ。買った素材を調理して食べることで今までにはない喜びを感じたが、その分外食の楽しみを失ったこともわかった。
お酒が以前ほど飲めなくなって、夜の食事先が無くなった。自分の世間が「酒縁社会」(居酒屋放浪記の吉田類氏の命名)だったことが明らかになった。酒の制限は「酒縁社会」との断絶に繋がる。
「職場」から切り離されれば、OBの世界で、年に一度のOB会もコロナで2年連続中止になった。年賀状やメールで便りをする関係になる。
人は複数のネットワークに所属することで、なんとかバランスを保っていられるのだろう。ネットワークがなくなれば孤独ではないが孤立化するのであろう。孤立化した先は精神に影響がでてくるかも知れない。
書籍目録の都度化で見えて来たもの
日用品のように買った本については書籍目録を都度書くことにしてみた。月に一度で傾向は掴めるが、動機の掘り下げができていないと感じていた。
買って読まない本の原因追求がなされていない。ついで買いをするのは何故か。どういう心理的な傾向にあったのか。何故選んだのかと理由を書くとなればそう簡単に手に取るわけにはいかなくなるはずだ。書くことでダイエットした経験を基にした考えだ。
「何を読むか」とは知識社会を生きる人の悩み
仕事の本は果てしなくある。しかし、パレートの法則によれば、時間をかけてもあまり効用をうまない状態にある。さらに何を読むかわかっていない。何に役立つかすらわからない。事例の解説はあっても本に答えはない。常に仮説と検証を求められ、不確実性という未来は、意思決定に揺さぶりをかけないではいられない。慣習に基づく思考を前提とした伝統的な会計の世界では価値が評価できなくなって久しい。根源的なことは考えずに、実務的な扱いを読んで実践してきたから、本は道具で最新版でなくてはならなかった。
「何を読むか」でなく「何故読むか」
本の出版予定がでるとメモして、本を買う。これは「何を読むか」のプロセスである。そこで、金と時間を考えると、時間の方が貴重資源なので、買った本を「何故読むか」という動機を追求し始めた。書籍目録の「購入後記」がそれである。目的は何故買うことにしたのかであったから、選択の問題にしていた。カテゴリで分けていたので、自分の読書の範囲が大体のところが見える。「いつ読むか」が明確ではない。論理的な存在のkindle版は読みたいときに買えばよい。物理的な存在の書籍は入手するのに時間と手間を要する。最近はAmazonで簡単に購入できるようになったが、読みたいと思ったときに手元にないと読まないですませてしまう。興味が移れば他の本を読み始めてしまうので積読本が発生する。「何故読むか」の動機はそれほど強くはない。
「いつ読むか」は決められない
積読本を「いつ読むか」に戻ってくる。
プロジェクトであれば、数冊の関係する本を選んで読み始める。ある程度理解したら、当たりがついた本は読まないで済ませてしまう。枠組を理解して瑣末なことと思ったら読み飛ばしてしまう。そんな乱暴な読み方をしていたので、処分した本は入門書の類が多い。体系がわからずに個別に入っても使える知識にはならなかったから、フレームワーク を重視して来た。
この後に使えなくなる知識を読むのは自分の知識体系をどう維持したいかに掛かっている。つまり「何をしたいか」である。一年後、その後と考えて、IT Assuarance関係は今年で不要になる。古文書を読むためには多くの関連知識が必要になる。古典を読むにも現代ものを読むにも、思想の伝統は無視できない。わからないなりに読むという選択肢しか我々にはない。「いつ読むか」は何かのインスピレーションが決めるのだと思う。それが何故なのかはわからない。ふと読みたくなるあの瞬間まで。
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