読書のちょと危険な面

Goinkyodo通信 断片記憶

カルチャーラジオ 文学の世界 荒川洋治の”新しい読書の世界”「序論・詩と散文」を「聴き逃し」で聴いた。

知人の北村太郎氏が子供たちのための読書の案内で、「読書によって心が広くなる人より狭くなる人の方が多い。読書によって、知識を広げ、意識を広げることはいいことだと言われる。逆に、自分の、小説だったら、ある作家が好きだということで、その人だけをずうっと読んでいくわけですね。そうすると、他のものを見なくなるのでかえってその人の文学に対する意識が狭くなる。自分の好み感じ方を余りに信じすぎると逆に他のものを認めないという非常に頑固な部分が出てくる。つまり、狭くなる。読書のいい面、そしてちょっと危険な面を(考えて)、なるべく狭くではなく広く物事を捉えるということだと思います。」という趣旨のことを話していた。

読書に限った話ではなく、スキーマの形成を考えると情報を取り入れることでスキーマが作られ、一度出来上がったスキーマを更新することは容易ではないという。英語の上達を妨げているものは間違った知識である。間違った知識を消して正しい知識に置き換えるのは思った以上に厄介だ。

昔と違って、各種のメディアから情報が入ってくるので、自分を形成しているものが何なのかという自覚、難しいが、気をつけることが必要になった。たしかに、小説に限れば好きな作家の本しか読まなかなったかもしれないが、ずっとそればかり読んできたわけではない。夏目漱石、森鴎外、太宰治、志賀直哉、堀辰雄、川端康成、三島由紀夫、谷崎潤一郎、アガサ・クリスティー、エラリー・クイン、E.S.ガードナー、星新一、小松左京、J.G.バラード、辻邦生、吉田健一、E.ヘミングウェイ、山手樹一郎、柴田錬三郎、司馬遼太郎、山田風太郎、宮城谷昌光。それ以外は2冊以上読んだにしてもすぐに思い出せない。大概は、一冊読んで、二冊目はなかったかもしれない。

しかし、小説というものにそんなに信頼を置いていいものなのか。小説をあまり読んでこなかった自分の僻みかもしれないが、文学に対する意識など、小説を読むことでしか形成できないのかと思う。シェークスピアは小説ではないが、そこらの小説とは比べものにならない。松尾芭蕉は俳人である。大体、荒川洋治氏は私も詩集をもっている。文学者は文学を中心に物事を考えがちである。本はそんなに読めるものでもない。読むということは読まないことを選択したことと同じことである。自分が見えているものだけが世界だと思ってしまうことはあり得るのかもしれないが、そこまで想像力の乏しい人には会ったことがない。

そういえばアイン・ランドを思い出した。時間をかければ、まだ思い出される作家もいるだろう。サマーセット・モームも出てきた。同じ作家ばかり読むといっても、リストを挙げてみていつまでも同じ作家ばかり読むこと普通はないのなもしれないと思った。私の経験では、20冊以上読んだのはアガサ・クリスティー、辻邦生と宮城谷昌光氏しかない。ペリーローダンシリーズしか読まないという子でもいたのだろうか。北村太郎氏は何か統計とかの根拠があって言ったのだろうか。私には「だろう」の議論のような気がする。

3月のブログを見ると小説の類いはない。もう若くないので、毎年でる宮城谷昌光氏の小説を読むことくらいしかできなくなっている。頑固かもしれないが積読病にかかっているため、対象に対する好み、興味を優先するしか今日読む本を選びようがない。

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