『明智光秀と近江・丹波』(2019)

読書時間

福島克彦『明智光秀と近江・丹波 分国支配から「本能寺の変」へ』淡海文庫63、サンライズ出版、2019年第2刷

「近江」という字と「淡海」の字で「シガモノ」と認め「ここ滋賀」で購入した。寝る前に読む本だ。

第一章 美濃・越前・京

第二章 光秀の近江支配

明智光秀は史料が少ないので論ずるのが難しいのだと思う。金子拓『信長家臣明智光秀』(平凡社新書、2019年)は手紙を読むことで明智光秀という戦国武将を読み解いた。福島克彦氏の明智光秀は、城郭の専門家であり、宇佐山城などの縄張り図などもあり城からの視点もある。織田信長が足利義昭のために作った「公方御構」には「天主」が登場する(P21)。これは知らなかった。足利義昭の二条御所は発掘で石垣を見たことはあるが、「天主」がある城だった。

明智光秀の坂本城にも「天主」が設けられていたという(P54)。『兼見卿記』などの同時代の日記を読んでみたくなる。

第三章 光秀の丹波攻略 以降は京都本として読む。

明智光秀の丹波攻略では新たな配下となった国衆に対する気遣いをみる。手紙とは本来そういうものかも知れない。

「光秀は、書面から見る限り、服属した国衆に対して低姿勢であり、彼らに対する気配りや気遣いによって、相手の心をつかもうとしていた。本来軍役に関する賦課基準がなく、軍事動員に関する法的裏付けが曖昧な織田権力では、こうした武将の人間的魅力や信頼感によって引きつけていくことが重要な意味を持っていた」(P113-114)。

支配の根拠に曖昧さのある中で国衆を動かすことの難しさを知る。織田の軍法は残っていないが、明智光秀の軍法が丹波攻略の中で作られたことは確かなようだ。

第四章 光秀の分国支配

明智光秀が丹波を攻略した後、丹後支配をめぐり細川藤孝との関係を書いている。そして大坂本願寺との和議がなった後、明智光秀が畿内近国支配を担当するようになる。そして興福寺などの大和の寺社、国衆に指出目録を信長の命令で提出させる。石高調査が織田軍の軍役に基準になることが分かる。織田軍の軍役・軍法については明智光秀が残したという軍法が参考になる。

第五章 本能寺の変と山崎の合戦

本能寺の変と山崎の合戦をめぐる話は、色々と読んできた。福島克彦氏も明確な説を出していない。歴史家であれば当然であろう。史料がない以上は踏み込めないのである。

明智光秀に誤算があったとすれば細川藤孝・忠興父子が同心しなかったことだろう。かつて信長が金ヶ崎で浅井長政の裏切りにあったが、戦国時代の婚姻関係は同盟手段とはなっても絶対ではなかった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました