武蔵野雑感

断片記憶

国木田独歩『武蔵野』青空文庫、1998年、2004年修正版

国木田独歩の『武蔵野』を読むのは決まって秋の深まった空が高く見える頃だ。この短い文章を高校生の頃に岩波文庫で読んで野火止に行ったのが武蔵野を歩いた最初だった。平林寺辺りの景色も今では変わっているだろうことは想像に難くない。

読み飛ばしていたが、源平の闘いが小手指原・久米川であったことから記述は始まっている。新田義貞が鎌倉方と戦った古戦場である。中世史を読んできた身としては、この記述が後に展開しないのが気になった。鎌倉道についても国木田独歩は言及していない。

ツルゲーネフ著、二葉亭四迷訳の「あいびき」の冒頭の一節を長々と引用して、雑木林の美を展開したのが国木田独歩の取り柄である。『武蔵野』は今更読んでも仕方がない小品であるが、当時読んでいた村野四郎編『西脇順三郎詩集』(新潮文庫、1965年)に武蔵野が出てきたのがあって、それで行って来る気になったのを思い出した。

武蔵野を歩いてゐたあの頃

秋が来る度に

黄色い古さびた溜息の

くぬぎの葉をふむその音を

明日のちぎりと

昔のことを憶ふ

(『旅人かへらず』44番)

国木田独歩の『武蔵野』へのオマージュとも思える。

私は西脇順三郎の『旅人かへらず』に言及していない赤坂憲雄氏の『武蔵野を読む』(岩波新書、2018年)には少し不満である。

注)馬酔木の花が咲く頃になると堀辰雄の『大和路・信濃路』を読みたくなる。「浄瑠璃寺の春」で寺の娘が柿の木の自慢をしていて、秋に来ることを進めるくだりが思い出された。年中行事は楽しい。私も京の年中行事は好きだ。大晦日にTennsonの詩を朗読するのもなんとなく続けている。山で年越した日々が懐かしい。風が木々を揺さぶる音を聴きながら、いつか眠りにつく日まで。

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