巖谷國士(くにお)氏の講演をギャルリー宮脇で聴く。京都の相方に予約してもらって、行ったら、階段まで詰まるくらいの満席だった。寺町通を歩く人たちが不思議そうに覗いて行った。外から見るとかなり変な状態だと想像できる。歩く人が大勢の人々に見られているのだから。
「シュルレアリスムと絵画」という話で、「シュルレアリスム絵画」の話ではないというところがミソである。アンドレ・ブルトン著、瀧口修造、巖谷國士監修『シュルレアリスムと絵画』(人文書院、1997年)は「眼は野生の状態で存在する。」と始まる。野生(sauvage)は文明(civilisation)と対立する。眼は文明化の前に存在する。野生の状態で存在するとは、野生の眼を持っていることだ。
シュルレアリスムがタブローを窓として、窓の向こうの世界に入り込む。見る側の発想である。シュルレアリスムは自動筆記により様々な連想を追求する。言葉の組合せには意味があるが、線には意味がない。したがって、シュルレアリスム絵画は矛盾であるというのが巌谷氏の解釈である。シュルレアリスムは見方であるので、タブローとはなり得ないことになる。
高校生の頃、大学への数学を授業そっちのけでやっていたことを思い出す。あの頃、神の存在は数学で証明するという話があって、数学に夢中になっていた。美術室で友人と話すテーマは奇しくもシュルレアリスムだった。僕らはシュルレアリスム絵画の話をしていたことになる。しかし、そうなると僕らはシュルレアリスムを何と考えていたのだろう。今となっては思い出せない。
即興だという講演が終わって、巖谷國士先生とお話する機会があって、著書にサインをいただくため向島研究所の名刺をお渡しすると、祖父の巖谷小波(さざなみ)氏は木曜会を主催し永井荷風とは知り合いで、永井荷風の本に登場しているという話で盛り上がってしまった。
それにしてもギャルリー宮脇のコレクションは凄かった。ミロ、エルンスト、マッタ、キリコ、マグリット、ダリ、そして久しぶりにギュスターブ・モローを見た。シュルレアリスムの遥か前の19世紀の画家であるが、アンドレ・ブルトンの本で取り上げられたので、階段の上に2点展示されていた。
2016年11月19日(土)15:00〜16:40@ギャルリー宮脇 in 京都
演題:「絵画のシュルレアリスム アンドレ・ブルトン再発見」
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