冨士谷御杖の言霊論とモスクワでの『古事記』公演

古都を旅する

鎌田東二「霊性の京都学87 冨士谷御杖の言霊論とモスクワでの『古事記』公演」『月刊京都 2016年12月号』

冨士谷御杖については、「倒語説」について言及されたところで、前月は終わった。さて、今月の論を読む前に、鎌田東二氏の冨士谷御杖の「倒語論」の位置づけを著者の他の著作からみていきたい。といのも神田古本まつりで鎌田東二著『記号と言霊』(青弓社、1990年)を見つけたからである。冨士谷御杖の思考を本居宣長への批判として始めてたという記述はそっくりだ(P326)。前月号はこの本(自著)が種本だったのか。自著を断りもなく延々と引用していたのだった(笑)。新たな論考と考えた私が物知らずでした。

鎌田東二氏は江戸期の言霊観を賀茂真淵「五十の音は天地の声」といった音義説を例に挙げ、音声法則観と見ている。冨士谷御杖の「倒語論」はやはり特異な位置づけとなるが、ロマン主義として捉えているようだ。

「全体性の回復と根源性への遡及というロマン主義の衝動は、その衝動のおもむくところ、必然的に「宇宙論」ないし「生命論」あるいは「霊魂論」に行き着く。なぜなら、それらはすべて、人間や自然や世界の全体と根源を想いうかべようとするときに、誰しもがぶつからざるをえない思考の根本枠組だからである。とすれば、ロマン主義において言語が問題になるとき、その言語論は必ずや「言霊論」あるいは、「言語生命論」や「言語宇宙論」として現われざるをえないだろう」(P124、『記号と言霊』)

「直言」と対立する「倒語」をあげた後、言葉の「表・裏・境・神」のダイナミックを説き、歌道論となる。この辺りは面白いのだが、いかんせん私の能力では説明しきれないので省略した。クリスティバの詩的言語論との対比を本ではしているが、『月刊京都』へ話を戻すと、さにあらず、またしても、話はいきなりモスクワに飛ぶ。

『古事記』モスクワ公演

8月初旬の内モンゴルの旅に続き、9月にはロシアへ旅行した。モスクワ音楽会館演劇ホールで鎌田東二氏の『超訳 古事記』(ミシマ社、2009年)を原作にした東京ノーヴィ・レパートリーシアターの『古事記〜天と地といのちの架け橋』がロシア功労芸術家のレオニード・アニシモフ氏の演出により上演されたのである。

「私はこれまで『古事記』を生命賛歌と死生観の探求の書、あるいはスピリチュアルケアやグリーフケアを含んだ鎮魂の書と読んできた」。「そこで私は、『古事記』の物語の具体的事例は特殊日本そのものであっても、そこで語られているテーマと本質は生命普遍・宇宙普遍・世界普遍性があると主張してきた。そして、ロシアの観客とその感情を共有できたような気がする」と書いている。

「現代社会における真の「こころのケア」は「情緒」を離れて「感情」を働かせる心身変容技法が必要になる」。「アニシモフ氏は、演出家として、役者に「情緒」ではなく、「感情」をはたらかせよと迫る」。話はアニシモフ氏の提唱する「スタニスラフスキーへの道」になり、なんと、シンポジウムの案内で終わってしまう。

「私はこのアニシモフ氏たちと共に、来たる12月18日に上智大学で「世阿弥とスタニスラフスキー」と題する国際シンポジウムを開催するが、ここで存分に『古事記』と能と世阿弥とスタニスラフスキーの演劇論的心身変容技法を追求したいと思っている」。

行こうじゃないか!

国際シンポジウム「世阿弥とスタニスラフスキー」2016年12月18日(日)

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