志明院とは
志明院(しみょういん)に行くことになった。京都市北区雲ヶ畑にある真言宗仁和寺派の寺院である。石楠花で有名な寺院である。司馬遼太郎の「石楠花妖話」(1954)というエッセイは石楠花の花の時期に志明院へ泊まる話だ。花は口実で実は妖怪変幻が目的だった。
何故に志明院?
我々は、京都ホテルから鴨川の源流域まで、車で向かった。1日2本あるという北大路駅からのバスの時間が合わなかったのだ。乗務員さんは、住職とも知り合いで、何度も行っているという。上賀茂さんでは単に「ハタ」ということを教えてもらった。花の季節でもなく紅葉には早いこの時季を何故に選んだのか、相方に聞いてみた。「もののけ姫」かも知れないと思ったが、新日本風土記の「京都 鴨川」(2013)の影響かとも思った。再放送がこの夏(6月)にあったのである。そうしたら橋之助さんの番組だという。私も見た「京都ぶらり歴史探訪」(8月)だった(笑)。一番最近の番組が記憶に残っているものだ。
雨上がりの曇り空の下
雲が低く垂れ込み、近くに見える上賀茂の山々は、クリームをのせたケーキのようだ。比叡山も姿が見えない。車は賀茂川に沿って上流へ向かう。川幅が狭くなり、杉林の中を縫うように車が上がっていく。流れが目線に近づく。鴨川の源流は府道61号を詰めた桟敷ケ岳の祖父谷川である。岩屋山志明院は手前の岩屋橋で左手から流れてくる雲ヶ畑岩屋川の水源地にある。賀茂川の水源地ということで、嘗て雲ヶ畑では火葬が許されず、清滝川水系の真弓まで峠を越えて遺体を運んだことから、持越峠の名が残る。
雲ヶ畑の出雲造りの千木屋根
中津川との出会橋を渡れば賀茂川は雲ヶ畑川と名を変える。私立雲ヶ畑小学校・中学校が見えた。雲ヶ畑の集落の中に出雲造りの千木屋根が見えた。千木が7つあるのが本家だという。井上章一氏の『伊勢神宮と日本美』(講談社学術文庫、2013年)はまさに雲ヶ畑の出雲造りの集落の話から始まるのだが、説明を聴いてふと思い出した。だいぶ減ってしまったようだ。
志明院というところ
白梅橋から持越峠への道を左手に見送り、松上げの福蔵院を右手に見て、小さな岩屋橋を渡り西へ向かう。惟喬神社を過ぎて志明院の駐車場で車を降りた。石段を上がり住職の奥様に挨拶して入山料を納めると、寺の案内をしてくれた。司馬遼太郎の「石楠花妖話」では、「こつ然と眼前に小盆地がひらけた。四囲絶壁の中にある小学校のグランド程度の平地である。志明院はそこにあった。銅ぶき、白木造。一見、寺院というより鎌倉時代の武家屋敷のような構えである。意外なほど清潔な感じがした。」とある。
水が美味しい
楼門の石段下の右手に水飲み場と言っていい手水があり、柔らかい水が美味しかった。ペットボトルで持ち帰る人もいるという。左右は石楠花の木である。仁王様のいる楼門から先は撮影禁止となっている。ちょうど秋明菊が咲いていた。高野山奥の院も御廟橋から先は撮影禁止だし、大神神社の三輪山の登拝も撮影禁止だった。信仰の対象には参拝者の配慮が求められる。Pokémon GOなどもってのほかである。
本堂・飛竜の滝・岩屋
楼門を潜ると急に厳かな雰囲気となる。長い石段の先に本堂が見える。志明院の本堂の不動明王様のご開帳は4月29日である。飛竜の滝の前に火渡りの神事をする場所がある。石楠花の花の咲く頃で、花目当ての人も多く混雑すると住職の奥様から説明があった。確かに、参拝する間は我々しかおらず静かな境内を味わえた。鴉だけが静けさを破っていた。飛竜の滝を脇から上がると岩屋があり、脳の病に効くという薬師如来様と不動明王様のある岩屋に分かれていた。不動明王様のある岩屋は護摩の煤で壁を触った相方の手は黒くなった。歌舞伎の『鳴神』の舞台はこの洞窟であった。飛竜の滝まで滑りやすい道を戻る。
舞台の上の護摩の岩屋
飛竜の滝から先は急な登りである。雨の後で石段が濡れて滑りやすくなっていた。上の方では銀杏も落ちていた。懸崖造りの舞台が見えた。階段を上がると鉄板の舞台へ出る。岩屋へはゴツゴツした岩の上を踏んで行く。屈まなければ入れない護摩の岩屋ではお不動さんと水滴が落ちるところを乗務員さんにライトで照らしてもらって見る。外に出て岩屋の上を見ると、迫り出した岩壁上から水滴が岩に当たって跳ねながら落ちて来るのが見えた。
映画『古都』
降りて来たら、スーツが蒸れるくらい汗をかいていた。御朱印を書いてもらいながら、手元にあったパンフレットの話をした。
Yuki Saito監督の映画『古都』は川端康成の原作のその後を扱う。志明院も回想シーンでちょっとでるという。京都は先行して11月26日公開、全国は12月3日から公開される。
笑顔が素敵な奥様に挨拶して、我々は石段を下りて山を後にするのだった。
相方に買ってもらった鈴の澄んだ音色を聴くと志明院を思い出すことだろう。
出雲造りの民家
志明院の楼門と秋明菊
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