鎌田東二「霊性の京都学84 安土桃山時代の京都」『月刊京都 2016年9月号』
藤原惺窩、伊藤仁斎と江戸時代の学問が続いたが、本居宣長と伊藤若冲を書いてからここに書くことも忘れていた。
鎌田東二氏は富士谷御杖(ふじたにみつえ、1730年ー1801年)の言霊論を展開する前に、安土桃山時代に戻って流れを振り返り、学問の成立を説こうとする。
織田信長の安土城にあった「宝塔」と吉田神道の大成者である吉田兼俱の創建した「大元宮」との接続点を探ろうとするところから論が展開する。織田信長は「予自からが御神体」と称したとルイス・フロイスが『日本史』で証言している。
吉田神社を節分に訪れると、本宮の南方に延喜式内社3,132座を祀る大元宮の特異な建物を見ることができる。吉田兼倶邸にあったものを1484年に移築したものだが、正面八角形の建物の後方に唐破風屋根を載せた六角形の後房が付属する。
安土城の1階部分の不整形な八角形の天主構造に吉田神道の影響があったのかは推測の域を出ないが面白い。
豊臣秀吉の没後に創建された豊国神社は「豊国乃大明神」の神号が下賜され「吉田神道方式で祀られた。吉田家当主の吉田兼見が斎主となり、弟の神龍院梵舜(が)神宮寺の別当となった。」と指摘する。
徳川家康の死後に神号について、天海と崇伝、梵舜の間で明神が権現かで争われ、「東照大権現」となった。
戦国時代は終わり、「仏教もキリスト教も抑え込まれて宗教的強熱を挫かれたが、その先に諸種の学問的探求が花開いたのである。」と結ぶ。いよいよ次号は富士谷御杖か。
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