斎藤茂吉『万葉秀歌(下)』岩波新書、1938年、2014年改版102刷
そもそも、万葉集の長歌の後に添えられた短歌や反歌を独立した短歌として鑑賞する斎藤茂吉等の方法論に問題は無いのだろうか。短歌として独立したものとして詠んでいないのだから、全体性を持ったものから部分を切り出して鑑賞してみせても響いてこない。
近代歌人の写生論で柿本人麿の歌を解釈するのは勝手である。古代人の人麿の歌を近代歌人が歌作に活かす目的で解釈すれば自ずからそのような見方になる。古代人が近代の写生論で歌を作るはずがない。
万葉集はほとんど読まれてこなかったし、日本文化に大きな影響を与えたものでもない。近代人が再発見した万葉集も近代歌人の解釈で読まれているに過ぎないし、万葉の精神などといったものも、斎藤茂吉の言葉を借りれば「上の空の偶像礼拝に過ぎぬ」。
斎藤茂吉は「国民全般が万葉集の短歌として是非知って居らねばならぬものを出来るだけ選んだためであって、万人向きという意図」(序)であるという。「本書の目的は秀歌の選出にあり、歌が主で注釈が従、評釈は読者諸氏の参考、鑑賞の助手の役目に過ぎない」(序)という。
この斎藤茂吉の『万葉秀歌』をもって作歌の手本とするものはいるのだろうか。
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