河内将芳氏『大政所と北政所ーー関白の母や妻の称号はなぜ二人の代名詞になったか』戎光祥選書ソレイユ、2022年
河内将芳氏の「秀吉生母大政所の病と畿内近国の寺社」、奈良歴史研究会『奈良歴史研究』第93号 2022年6月10日を取り寄せて読んだことはすでに書いた。そこで本書を読み直しすることにした。
論文の方では、書かれていなかったが、天正16年(1588)の多賀社へ送った書状の尚々書を見ると秀吉という権力者が母の命乞いをする姿を赤裸々に伝えているように思われた。
「命の儀、3ヶ年、しからずば2年、実々(げにげに)ならずば、30日にても延命そうろうように頼み思し召されそうろう」(p.6)。
しかし、河内将芳氏は秀吉の母に対する「孝養」とみる説に対し、「もちろん、額面どおりにうけとって、秀吉と母との関係をあらわす文章と読みとってよいのかもしれない。しかしながら、そのいっぽうで、関白・太政大臣の地位にある権力者が出した書状である以上、そこに何らかの意図がこめられているのではないかとうがってみることも可能といえよう」(p.7)と深読みするのである。
秀吉のルーツは大政所しかない。大政所の病がそれを意識させたことは確かであろう。大徳寺内に天瑞寺を建立したりして祖先として大政所を扱う路線は秀次事件以降に変更を余儀なくされたことは論文にも書いてあった。本書第二部の結論も以下となっている。
「このように、大政所は、その死後にいたってもなお、秀吉政治の、いわば駒のようにとりあつかわれていたことが知られる。したがって、その関係は「孝養」ということばではおさまりきれないのであったとみたほうが妥当といえよう」(p.83)。
これに対して秀吉と北政所との関係はどのようであったのだろうか。第三部では北政所となってから、第四部では秀次の死と秀吉の死とその後、北政所が高台院となるまで(慶長8年(1603)が扱われる。
第三部第一章では、秀吉、北政所に久しく仕えた客人・マグダレナ、東という女房とその娘達の役割が財産管理であり、その統括者が北政所であることが述べられる。
第二章では、北政所と呼ばれる時期や、知行、秀次が関白を継いだ後も北政所と呼ばれていたこと、太閤秀吉との間の手紙はね、おねになっていることが確認された。
第四部第一章では、秀吉と北政所と秀次の関係が述べられる。秀頼の誕生で、世情不安となり、秀次の死後、秀頼への継承が急がれたことが述べられた。
第二章では、秀吉の死後、北政所はそのまま北政所であった。慶長8年(1603)に勅許により高台院という院号を得た後も北政所という呼び名が出てくるというから、北政所とおねゝは一体化したものだったという。
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