古典とは何かということと、古典として読むということに違いはあるのだろうか?
丸山真男は福沢諭吉の『文明論之概略』(1875年)を『論語』やプラトンの『国家』と同列に思想的古典として扱かっている(『「文明論之概略」を読む 上』(岩波新書、1986年)。歴史的基盤を問うことなしに「直接」の対面が可能なものを古典とした上で、古典を読むことは「自分自身を現代からの隔離するため」であると云う。
対して子安宣邦は『『文明論之概略』精読』(岩波現代文庫、2015年)の序章で「『文明論之概略』はプラトンの対話集やゲーテの『ファウスト』と比べられるような古典ではない」とした。「これが古典であるとは、あくまで近代日本の黎明期の著作という歴史的な限定をともなった意味においてである」と云う。歴史的な限定から切り離して古典一般として読むことをしていない。「近代日本に向けて発せられた初めての文明論的メッセージとして」読むことに意味を見出している。
私に関して言えば、古典からおよそ遠いところにいる読者である。『文明論之概略』を古典とすることに違和感を感じるのは、古典を古典文学と考えていることからであろう。
『文明論之概略』の読み方(その1)
『文明論之概略』の読み方(その2)
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