河内将芳『シリーズ 権力者と仏教 秀吉の大仏造立』法藏館、2008年
本をパラパラしてみたのであるが、秀吉の大仏の絵が出てこない。どうやら秀吉の大仏殿と大仏について分からないことだらけだということが分かった。『秀吉の大仏造立』を読むにあたって、豊国神社の資料とか探していて時間になってしまった。
本書は4章からなる。
第1章 東山大仏の出現
第2章 大仏千僧会の開始
第3章 善光寺如来の遷座
第4章 大仏鎮守の建立
第1章 東山大仏の出現
河内将芳氏は豊臣政権が諸大名に大仏殿の普請手伝をさせた記録から秀吉の大仏造立を探る。大仏殿普請手伝人足一覧をみると、羽柴加賀少将(前田利家)10,000人などとある。羽柴性を大名は与えられていたのを思いだす。
「大仏殿御算用事」という帳簿には代官からの米の総額が天正19年で2万1332石8斗3升4合、天正20年は3万3725石あったという(p.39)。帳簿の「払い方」で「番匠」たちの人数と人件費が分かる。「天正19年2月より12月までの分」で人数はのべ13万9307人分、人件費は9191こく2斗2升2合にのぼった。「杣」「鍛治」「柱口石切」「材木屋ども屋根葺き」と言った「諸職人」の人件費の総額は1万3437石2斗1升2合5夕だった。
秀吉の造立した大仏の絵は残っていないという。秀吉によって建立された大仏殿は慶長7年(1602年)12月に火災で焼失した。現在確認できる史料の多くは秀頼が再建した大仏殿と大仏に関するものだという。本のカバーや53頁の図9の大仏殿(『豊国祭礼図』豊国神社蔵)が描かれた時には秀頼の再建した大仏殿はなかったので、この絵は秀吉の大仏殿を描いたものと考えられる。「豊国神社に残される『豊国祭礼図』という、秀吉7回忌を記念して慶長9年(1604年)8月におこなわれた臨時祭のようすを描いた屏風」(p.52)の写真が小さいのが残念だ。
大仏殿に関わった木食応其(もくじきおうご、興山上人)という高野山の僧が「大仏本願」として、大仏作事の総指揮、総監督にあたったという(p.44)。木食応其について知りたくなった。
注)
『季刊大林』で方広寺大仏殿を特集していたのを思い出した。
『季刊 大林 No.57 秀吉の普請』大林組CSR室、2016年
豊国神社の宝物館で「豊国祭礼図屏風」(重文)を見たときに買い求めた資料を探したのであるが、見つからなかった。京都に行った折に豊国神社を再訪したい。
#河内将芳 #歴史 #中世史 #京都
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