森有正『経験と思想』岩波書店、1977年
前回は思い出を書いて終わってしまった。今回から内容に入ろうと思う。
『経験と思想』は岩波書店の『思想』に掲載された。森有正によれば第Ⅰ部である。その後は、第Ⅱ部は「『実存』と『社会』」と題することにすると書いて終わってしまった。
森有正は「経験」や「思想」を定義して使う人ではなかった。「経験」や「思想」をずっと考え続けた人だった。「経験」が人を定義するという遣い方をしている。
「経験」と「体験」については遣い分けがされていて、私の理解では、デズニーランドのアトラクションの「体験」は誰にでも味あわせることのできるものであるが、我々を取り巻く現実という「経験」は人それぞれによって受け止め方が異なるし、その「経験」がその人の「人生」を定義することになる。「経験」と「体験」は重なり合う部分があるが、本質は異なる。「体験」はそれを取り出して示すことができる。しかし「経験」はそれを取り出して示すことができないのは、我々の精神を形成しているからである。
私は少し極端に言っているのかも知れない。著者の言葉を説明するには、普通は著者の言葉を引用すればよい。しかし、森有正の長いフレーズを引用しても、私にはパラフレーズしかできない。説明にならないと思っている。
「経験」も「思想」も、それ自体では一つの名辞であって、ある一定の事態を命名するために使用されるものであり、その事態そのものは、各人が感じ、考え、これらの名辞を冠すべきものであることを見極めらような、そういう事態に外ならない。その場合、言葉ではなく、そういう事態そのものがこの二つの名辞を定義することになるのである(P1)。
経験こそ思想の源泉であり、この「経験」という「定義」するものこそ、「思想」という、言葉によって組織されたものに対する基底をなすものである。そして、「経験」は、人間が幾億いようと一つである、ということが私の確信である。それは現実(それは私によっては経験と同義語である)はただ一つしかないからである(P93-94)。
「思想」とは、「経験」が組織されて現実と等価値なるところまでその密度が高まることだからである(P94)。
「経験」や「思想」という言葉そのものを定義せずに進める論法はどうにも難しい。何度も読み返しをしてみたが、引用しても伝えきれなさを感じてこの先を進めることができないで、今日を終える。
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