「道具としての英語」になっているか

Goinkyodo通信 断片記憶

このところ英語学習の本を幾つか読んでみた。読むだけで身につくものでないことは明白である。目的が全てという強い主張があったのは多田正行氏のものだった(注1)。英語を第二母語とするようなアプローチではなく、第一外国語として客観的にその習得の仕方を考えている。問題を辞書と参考書を使い自力で解いてから自己添削させるのである。別冊宝島で読んだ『新版道具としての英語』(注2)の考えに近いように思える。

「道具としての英語」は日本人の英語表現を獲得することを目指す。「英会話」に潜むイデオロギーを取り上げた論考を読むと、「宝島」というカウンターカルチャーのなかで、「英会話」がサブカルチャーとして批判の対象になっていた(注3)。

片岡義男氏がインタヴュー(注4)に答えて、「「グレトフル・デッド」のリーダー、ジェリー・ガルシアに「緑色革命」を書いたチャールズ・ライクがインタヴューした本(『自分の生き方をさがしている人のために』草思社刊)を取り上げた。「ガルシアの英語の言葉は最終的には理解できませんね」(72頁)といい、それを知るには『いちご白書』みたいな本しかない」(同上)。

そこで、『いちご白書』の原書である『The Strawberry Statement』(注5)をサンプルで読み始めた。なんと『宝島』をめくっていったら、北山耕平氏が「「いちご白書」でもういちど」(注6)という洒落た論考を書いていて、随分と引用してある。というか、英文解釈の教材として使っているのだった。

『別冊宝島2新版道具としての英語』を読み直して、学生時代のことを思い出したけれど、このムックをどう受け止めていたのかは今となってはわからない。綴間違いを鉛筆で訂正したあとが残るだけであった。書いておくということは大切なことだと思う。

 

(注1)多田正行『思考訓練の場としての英文解釈(1)』育文社、1973年、2009年第35刷

「英語の学習を進めるに当たってまず何よりも第一にはっきりさせて置かねばならいことは, 「何のために英語を学ぶのか?」という問いとその解答とであろう」(序)

著者は「英語学習を論理思考の訓練の場」としている。

(注2)『別冊宝島2新版道具としての英語』JICC(ジック)・出版局、1976年

(注3)ダグラス・ラミス「イデオロギーとしての英会話」『別冊宝島2新版道具としての英語』所収
外国語学校の広告を取り上げ「「native speaker」という表現は結果としては「白人」を意味する暗号なのである」(50頁)。

(注4)片岡義男「新しい感覚、新しい英語」『別冊宝島2新版道具としての英語』所収

(注5)『いちご白書』の原書に「,」が紛れ込んでいるが、常識的に考えても変であるが、そのママ引用した。
「The, Strawberry Statement—Notes of a College Revolutionary by James Simon Kunen」

—『The Strawberry Statement James Simon Kunen著
https://a.co/1t1gFdq
主題歌のバフィ・セント=メリーの「サークル・ゲーム」がよく深夜放送でリクエストされていた。

(注6)当時、映画『いちご白書』(1970年)を学生運動としてユーミンが書いた曲をバンバンが歌った「『いちご白書』をもう一度」(1975年)が流行っていた。カウンターカルチャーの『宝島』らしいもじりである。

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