森有正を読むということ

Goinkyodo通信 断片記憶

森本あんり氏が日本経済新聞の半歩遅れの読書術に「森有正を読むということ」を書いていた。大学生の時にキャンパスで森有正を見かけたが、その年(1976)の秋にはパリで逝ってしまったという。森有正と話したことはないそうだ。森有正について書かれた本には興味はなく、森有正の書いたことを「自分の個的内面に構築し直すること」が森有正を読むことだと書いている。読むということはその通りだろう。そして、森有正を読むのは自分たちの世代までのような気がすると書いていた。生年を見ると1956年である。書店に森有正の本が積んであった時代は確かにあった。

森本あんり氏は『ドストエーフスキー覚書』(森有正著、筑摩書房)の冒頭の言葉に衝撃を受けた。その部分を引用する。

「キリスト教は人間の罪を明らかにし、かつその罪からの救いを教えるが、それは人間を倫理的責任のある主体として規定することであるのと同時に、人間がその責任を担い得ない存在であることを断言してもいる」。

その続きは、筑摩叢書(1967年)から引用してみたが、切る場所がなくて困る。

「この二つの矛盾することがらが一つに結合しているところにキリスト教の独自性がある。人間は中間者であるというかの古典的な定義のもっとも深い意味はそこに存するのである」(p.5)。

「ところでもっもと深い意味においてキリスト教にあっては、罪は、神の意志もしくは掟に対してはじめて成立する」(同上)。

「人に対する罪でも、必ず、神の意志に対する関係の媒介をまってはじめて成立する。それは具体的には、聖書に記された神の言葉に対する信仰を予想するのである」(同上)。

「それであるから、キリスト教ないし聖書の教えに対する信仰が急激に希薄になった近代において、キリスト教的罪悪観が容易に成立しえなくなったことは当然であるといわなければならない」(同上)。

「しかるに罪は、すでに述べたように、主体の倫理的責任を前提にするから、キリスト教的秩序が原理的に崩壊した近代西欧において、事態は一路ニヒリズムへ突入するのが、原理上、不可避であったはずである」(同上)。

「なんとなればニヒリズムは主体が自己の責任ある努力を不可能にする事態の中におかれていることの意識以外のなにものでもないからである」(pp.5-6)。

なんとネチッコイ文章なのだろう。

「しかし事実は必ずしもそう簡単に進行しなかった。それは、ルネサンスにおいて、人間の自律の観念が新しく自覚されてきたからであった。人間は自己に対して、責任ある努力の基礎であり、またその対象である、と考えられた。人間は自然の本性を具えた存在として考えられ、自己の本性に徹することによって真善美を知り行うことが可能であると考えられた。ルネサンスのヒューマニストたち、プラトニストたちは、明らかに、このような考え方を有していた。それは、デカルトにおいては、理性の自律となり、さらにカントにいたっては、意志の自律となった。これらにおいて、人間自律の基礎が、次第に深く、しかし狭く、人間本性の奥に探究されていった。それは常に、全体と個、感性とりせい、理性と意志のたいりつを含む批判と解放と自律との運動であった。ヘーゲルはそれを絶対精神の自己発展の過程としてのうんどうそのものにおいて把握し、歴史の概念に到達し、人間の思惟の自律は極限に接したが、同時にその観念性、非現実性を露呈し、ここにもルネサンス以来の思想的発展の基礎となった合理的人間性の立場は崩壊し、その根底にあったニヒリズムが曝露され、それを克服しようとして、人間現実そのものと実践的にかかわろうとする現実的思惟が成立し、それと並行して社会的解放の運動が興った。それはともかくとして、このニヒリズムは、キリスト教的秩序の崩壊そのものにおいて、原理的にはすでに、開始されていたのであって、その内容は、究極的責任の不可能であること、すなわち罪悪の抹殺を意味するものであった。ニヒリズムを単に、合理主義の極限概念、その崩壊と解することは、歴史的にはともかく、原理的には、はなはだ不十分な見解であるといわなければならぬ。したがってニヒリズムを徹底的に問題とする場合、罪悪の問題と十分真剣に対決し、それを解決することはなによりも大切であるといわなからばならない。ドストエーフスキーの『罪と罰』およびその他の大作は、パスカルおよびキェルケゴールの業績とともに、この問題に関する、近代において試みられた、最も大規模な企図の一つであると考えることができる」(p.6)。

森本あんり氏は神学者である。私が森有正を読むのとは受け止め方が違うであろう。辻邦生を読むことで森有正を知ってから、もう半世紀近く経った。読み直すことで見えなかったものが見えてくるのだろうか。

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