前島康彦『向島百花園』(財)東京都公園協会、1981年、2003年第3版
「向島百花園は、通常、文化二年(1805)佐原鞠塢(きくう)の開創した花園とされている」(P20)。
ここに至るまで、利根川、荒川、隅田川の歴史と向島という地名の由来が考察される。牛島と寺島の間を隅田川(宮川)と分かれて中世隅田川が流れていた。銅像堀公園あたりが隅田川を分ける境だったことになる。
向島百花園が江戸の名所を今に伝える稀有な公園としてあることを前島康彦氏が力説している。しかし、明治四三年(1910)の洪水で植生が失われて荒廃した百花園は昭和一三(1938)年に東京市へ寄付された。昭和二〇年(1945)の空襲で建物や木々が焼けてしまったため、多数残る石碑以外は新しいものと言える。
東京公園文庫の他の本を読んだことはないが、『向島百花園』は文化史として読まれる本であることは間違いない。
すみだ郷土資料館の特集展示「すみだの情景ー秋・冬ー」で展示された浮世絵の中に、東都名所図会八月向島花屋敷花ぞの(初代歌川広重、安政元年(1854))があった。向島百花園と呼ばれるのはいつ頃のことだろうか。
企画展「寺島名所ーー失われた景観とすみだの寺社ーー」の最初にあった江戸末期の江戸名所旧跡繁花の地取組番附(すみだ郷土資料館蔵)を見ると東の前頭尻に寺島花屋敷とある。ちなみに、東の大関は忍ヶ丘、西の大関は隅田川である。
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