趣味のプロセスを考える
趣味の部類の本の現状が分かったところで、これらの本が今日読む本になる確率が低い理由を想像してみよう。
趣味だった本が読まれなくなった原因
①熱中する時期が過ぎたこと
②代替的なものがあること
将棋を例にとると、将棋は指しているとき、詰将棋を作ったり解いたりしているときは主体的であり、時間を忘れている。仕事に追われるとそれもできなくなる。以前は『近代将棋』『将棋世界』など月刊誌を読んでいたし、『詰将棋パラダイス』を購読していた。これらは、(その1)では明確に書かなかったが若者達によってリサイクルにまわされた。
だからといって、日曜日はテレビ将棋を見ているし、最近はAbemaTVで対戦を見て身体が凝ったりもする。スマホで詰パラを解いたり、将棋DB2で最近の棋譜を確認したりもしている。新聞は日経しか読まないが、王座戦は毎日次の1手を考えている。
要するに将棋に費やす時間はそれなりにあるので、本まで手にするのは情熱が必要になる。好敵手に勝つために戦法の研究をするとか、子供達に将棋を教えられるように駒落ちの定跡知識を整理するとかがなければならない。そうした情熱がいつ訪れるやもしれず。本は時たま箱を開けて、詰将棋の本をパラパラしたり(ポケットに入るくらい小さくて薄いので通勤電車で読むこともある。)、二上達也九段が亡くなれば追悼のため詰将棋を解いたりもする。
趣味の段階が入門から始まり、本の良し悪しが判断できるところまで来ると、本の用途によって残るものは残ることになる。将棋の実戦譜は玄関の本棚に収まっているし、詰将棋の本は段ボール箱の中だ。別に無くなっても困らないが、引退も近いので、情熱が残っていればと思い、買い直した『将棋大観』は本棚にさしている。
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