読書家か愛書家か

断片記憶

「讀書の文化的意義は書籍を通じて時代に觸れるところにある」と内田魯庵は書いている。

「讀書享楽を信條とする私の如き随分愚書をも漁って、五年十年はおろか百年二百年前の古書を珍重するにおいて人後に落ちないツモリであるが、それは寄席や芝居へゆくと同じ遊戯であって、ホントウの讀書といふはソンナものではないと思ってゐる。読書の文化的に有意義なるは、書物を媒介として時代に觸れるからで、時代の新鮮味を滿飽するための讀書家でなければホントウの讀書ではないのである」(「新著を閑却するはホントウの讀書家に非ず」『讀書放浪』書物展望社、1933年)。

内田魯庵は書痴と言われたほどの愛書家だと思っていたので意外な気がした。自分ができなかったことを後世のために書いたのだろうか。翻訳家としての内田魯庵の矜持だったのか。読書家と愛書家という対比に意味があるのか書痴庵先生と話し合わねばなるまい。

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