冨士谷御杖と内モンゴルの鳴鏑と子安貝

古都を旅する

鎌田東二「霊性の京都学85 冨士谷御杖と内モンゴルの鳴鏑と子安貝」『月刊京都 2016年10月号』

鎌田東二氏は冨士谷御杖(ふじたにみつえ、1730年ー1801年)が『古事記燈』を著して先行する二つの古事記解釈の方法を批判したとする。儒仏的牽強付会の解釈学と表層的表面的解釈学である。本居宣長の『古事記伝』は表層的解釈であるとした。冨士谷御杖の言霊的古事記深層(真相)解釈は次号で詳述するとして、唐突に『古事記』と内モンゴルとの接点に話になった。

内モンゴルと『古事記』の鳴鏑と子安貝の問題

どうやら、鎌田東二氏はNPO法人東京自由大学で中華人民共和国の内モンゴルに研修旅行をしたことが書きたいらしい。

「わたしは思いがけず、比叡山の神のルーツに行き当たったのである。それが「鳴鏑(なりかぶら)である」。

鏑矢を知っているだろうか、矢の先に付けて音を鳴らすものである。その「鳴鏑」が古事記上巻に出てきて、日枝の山すなわち比叡山の神であり、松尾大社の神でもある。

「大山咋神、亦の名は山末之大主神。この神は近つ淡海国の日枝の山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」(古事記 上巻)。

「わたしはその「鳴鏑」をハイラルのフルンボイル民族博物館の展示物の中に見出した」。

鎌田東二氏は匈奴が「鳴鏑」を用いていたことをいい、「古代日本に匈奴〜鮮卑系の「鳴鏑」文化が入ってきていたことは間違いない」とする。さらに、日本神話と朝鮮神話との共通点や影響関係だけでなく、広く鮮卑文化圏との関係も視野に入れるべきだと言う。

そして、フルンボイル民族博物館でもう一つ衝撃を受けた。「女陰の形態を持つ子安貝は、安産や豊穣の象徴である」。「その子安貝が信じがたいほど大量に内モンゴルのシャーマンの衣装に縫い付けられていた」のを見て、「この「子安貝」はそれを見る者にも着る者にも確実に「心身変容」を引き起こす」と書いた。

でました「心身変容技法」。

しかし、興奮しながらも鎌田東二氏は「残念ながら、古事記には「鳴鏑」は何度も出てくるが、「子安貝」のことは出てこない。」と語り口は冷静そのものである。

それでも「猿田彦大神」が「比良夫貝」手を挟まれて溺れる話を出して、法螺貝などの貝文化の分布を含め、「アジア,ユーラシア・環太平洋全域の中で神道や日本神話を再考していかねばならない」と意気軒昂であられる。

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