『月刊京都2016年6月号』鎌田東二の霊性の京都学 81 「本居宣長と伊藤若冲」を読む。
今年は伊藤若冲生誕300年ということで、どこもかしこも伊藤若冲である。去年は琳派だったような気がしたが、世の動きなど気にせずに「漫然」と読むのが最近の私の読者スタイルだ。
東京都美術館の「若冲展」は長蛇の列が出来ているという。まあ観に行くことはないので静観できる。と言っても、昔はとんでもなく並んだことがある。2007年に5月から6月にかけて承天閣美術館で開催された「若冲展」は並んだ並んだ。
当時の日記を見てみる。
2007年5月26日(土)曇りのち晴れ
なぜか始発に乗ってしまった。京都には
8:20に着いた。
松葉で蕎麦粥セット700円。タクシーで青蓮院門跡へ。楠の新緑がすがすがしい。
理髪店で理髪しサイフォンコーヒーを飲んでから相国寺へ。しかし、この余裕がいけなかった。東門にタクシーをつける。
承天閣美術館への行列が見えた。当日券売場までPM Podcastを聴きながら並ぶ。折しも陽射しが強くなる10時過ぎだ。2つの番組が終わり当日券1500を手に入れた。
ここからは特設の屋根の下に入り延々と並ぶ。遅々として進まない行列が入場口まできたときは12時を過ぎていた。
会場は第一の中も行列が続き、第二会場への廊下の先に出口が見える。
やっとたどり着いた第二会場は釈迦三尊像を中心に動植綵絵(どうしょくさいえ)が左右に配置され圧巻である。
ここでは列もなく人々がごったがえしている。図録2500円を買って外へ出ると13時を回っていた。
これくらい並んだのは2014年の上野「故宮展」の白菜くらいだろうか。
脇道に大きく逸れてしまった。
本論に戻ろう。というか入ろう。
伊藤若冲は錦小路で青物問屋、本居宣長は綾小路に勉学のため寄宿していた。歩いて10分程度の近さで京都にいた時期が重なるという話から始まる。
鎌田東二氏は伊藤若冲を細密画家としか見ていなかったという。それが、「MIHO ミュージアムの「かざりー信仰と祭りのエネルギー」展内覧会を観に行き、そこで衝撃の伊藤若冲にであったのだった」。
プライスコレクションの「鳥獣花木図屏風」にである。
「腰を抜かしそうになるほどおどろいた。これは誰の絵だ! こんな絵を描く人、見たことがない。この徹底したアンチヒューマニズム。徹底して人間が排除されている。動物と植物だけ。まさに動植物の極楽浄土」。
鎌田東二氏は伊藤若冲の絵を天台本覚思想の「山川草木悉皆成仏」の絵画表現と受け止めたのである。
やっと鎌田東二氏らしくなってきた。
もっとも、「鳥獣花木図屏風」の真偽論争に触れている。
「もしこれが伊藤若冲の作品でないとしたならば、わたしの驚きは半壊するわけであるが、しかし、仮にそうだとしてもこのような動物パライソとも言えるような動物天国絵を描くことのできる心性をわたしは日本文化の「いのちの讃歌」の系譜にあるものとして高く評価しておきたい」としている。
「半壊」はこの時期の表現としては良くないが、それはおくとして、涅槃図における動物の描き方との比較に触れてほしかった。
が、驚きは、「飛躍するような結論であるが、本居宣長と伊藤若冲は、ある意味で、『古事記』の中に歌い出された「むすひ」の感覚と思想をもっとも深く独創的に捉えて展開した同時代の双生児なのかもしれない。」という結論だった。
全然分かりません! 飛翔して行ってしまった感じだ。
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