呉座勇一『応仁の乱』中公新書、2016年
『応仁の乱』に関して今まで、岩波新書しかなかったのが不思議なくらいだ。確かに、長く、全国に渡り、結果がはっきりしない内戦であった。戦いだけを列挙されても眠くなるだけだ。でも、太平記の方が長いとちゃうか。
戦いの列挙をやめて、呉座勇一氏は「戦乱の渦に巻き込まれた人々の生態をそのまますくい取ることが肝要である」とし、興福寺僧の経覚『経覚私要鈔』、尋尊『大乗院寺社雑事記』の日記を通して、同時代人の視点で応仁の乱を読み解くという。しかし、それ以外に求めても良質な史料はないのではないか。
第1章 畿内の火薬庫、大和
第1章のタイトルは「畿内の火薬庫、大和」である。章のタイトルからして、応仁の乱を第1次世界大戦と似た構図と呉座勇一氏が見立てたことによろう(あとがき参照)。新興勢力である山名氏(ドイツに対比)が旧勢力である細川氏(イギリスに対比)に対抗し、望まない戦争をした結果、それに参戦した大名の没落を招き、戦国大名の台頭を許すことになった。
まず、何故興福寺なのか。
興福寺の門跡として大乗院及び一乗院と摂関家の歴史が語られ、大乗院の門主である九条家出身の経覚(きょうがく)と経覚・尊範の失脚後に大乗院の門主となる一条家出身の尋尊の日記がこの時代を知る根本史料でありことが述べられる。
実は、大和国には守護が置かれていない。強大な勢力である興福寺の動向が応仁の乱への布石でもあった。大和と接する河内の守護の畠山氏の内紛にも興福寺は大きく関わっていた。
第2章 応仁の乱への道
何故2つの日記の重要かが分かったところで、第2章 応仁の乱への道は畠山氏の分裂の話となる。畠山氏の分裂に乗じ、経覚が大乗院の門主に返り咲いたりした。
やっぱり戦いの列挙となる。
第3章 大乱勃発
第3章 大乱勃発は御霊合戦から始まる。御霊合戦の記述は『経覚私要鈔』、『大乗院寺社雑事記』に近衛家政の日記である『後法興院記』と『斎藤親基日記』を基にしている。上御霊社(現在の御霊神社)の写真がP85にあるのが懐かしい。灯籠の右手に石碑と看板がある。娯楽に徹するのであれば、門前の唐板の水田玉曇堂がでてきてもよかった。この後の戦いを列挙する気にはなれずに、読み進む。読みながら書いているのである。
興福寺の視点から見ても応仁の乱は、様々な要因からなることが分かる。
『応仁の乱』(2016)その2へ
コメント