鎌田東二「霊性の京都学86 鳴鏑と出雲国造家」『月刊京都 2016年11月号』
前号の「鳴鏑(なりかぶら)」問題を要約したのち、北島国造家に伝わる「鳴鏑」を見に北島国造館を訪ねた鎌田東二であった。確かにどのような音がするのか、鹿の角を加工した鳴鏑の4個の穴を開閉しても旋律は変わらず、単音だったという。
さて、そろそろ本題に戻ってもらいたい。鎌田東二氏は冨士谷御杖(ふじたにみつえ、1730年ー1801年)が『古事記燈』を著して本居宣長を批判をした。
平田篤胤も冨士谷御杖も宣長の『古事記伝』には満足できなかった。宣長批判をしているところは、しかし、難しい。
冨士谷御杖の言霊思想
冨士谷御杖によると、宣長の欠陥は「言によりて、霊によられざれりけるがゆえなり」とされる。「言霊思想」はよく分からない。冨士谷御杖の宣長批判について鎌田東二氏のまとめを載せておく。
第1に、『古事記』注釈における表層主義的態度への批判
第2に、古典解釈および神認識における不可知論的態度への批判
第3に、漢意の排斥に見られるような狭隘な排他的神道優越主義的態度への批判
3点のうち、第3の排他性は分かるが、表層主義的態度とか不可知論的態度への批判は学問を超えてしまうのではないのか。
鎌田東二氏は宣長に対比するように冨士谷御杖の方法を3点でまとめた。
第1に、深層解釈学の確立、すなわち言霊による象徴解釈学の構築
第2に、不可知論を退け、神の命心内在性自覚に基づく独自の神ひと論と人間学の提示
第3に、排他主義の自己矛盾と文化相対性もしくは文化の相互独立の指摘をダイナミックに展開していく。
御杖の「言霊倒語」とは
冨士谷御杖は「言霊倒語(ことだまとうご)」説という象徴論的な演繹法を提示したと鎌田東二氏はいう。具体的に『古事記』のテキストの解釈で宣長と御杖の違いを指摘してもらわないと、概念だけでいわれてもピンとこない。
来月まで、ペンディングだな。
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