宇野日出生『八瀬童子 歴史と文化』思文閣出版、2007年
八瀬童子の歴史は、八瀬童子と呼ばれたこの地域の人々に与えらた特権と奉仕の歴史ということができる。それらは八瀬童子会文書として伝えらてきた。
八瀬とはどんな地域なのか?
「京都市左京区八瀬は、洛北高野川上流沿いの四方を山に囲まれた集落である」(P3)。
八瀬の不思議とは?
「八瀬の不思議なところを整理していくと、次第にこの地域の壮大なる歩みを知ることとなる」(P6)。
「八瀬童子の村落自治の形成は、すでに平安時代中期には確認される。(省略)。当時八瀬は、のちに天台宗三門跡のひとつとなる青蓮院(当時は延暦寺青蓮坊)の所領となっていた」(P8)。
「南北朝時代になると、(省略)、後醍醐天皇から国名(くにな)が授けられた。(省略)、従来より八瀬童子は、領主から雑役免除のたいぐうを受けていたが、今度は後醍醐天皇から諸役免除の特権を与えられたのだった」(同上)。
「江戸時代中期からは年貢諸役一切の免除という特区としての扱いを受ける地域となった。(省略)。明治時代以降も実質租税免除の特別待遇の村となって、それはなんと終戦まで続いたのだった」(P9)
特権だけ並べてみたが、奉仕の歴史も見ていこう。
八瀬童子が山門配下の童子であったが、宝永7年(1710)に終わった比叡山延暦寺と山林境界争論以降、禁裏との関係に、より一層傾倒していったとする。禁裏御料以外の全ての年貢諸役が免除され、記念として赦免地踊が始まった。幕府裁許に影響を与えた老中秋元喬知(たかとも)の遺徳を忘れないための秋元神社を祀ることになった。
「明治時代を迎えた八瀬童子にとって、租税免除の代償のひとつに皇居での輿丁(よちょう)勤務があった。輿丁とは正式には駕輿丁という。天皇が主に皇居内を移動する時に乗る輿(こし)を担ぐ仕事だった」(P121)。
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