椎名麟三『永遠なる序章』河出書房、1948年
Le Petit Parisien のオーナーさんから借りた本である。書き下ろし長編小説、昭和23年6月25日発行と奥付けにある。戦後の物資が不足した時代の本の紙質は悪い。にもかかわらず表紙はハードカバーである。持った感じが軽いのはこの時期の本の特徴だ。紙も乾燥し切っている。281頁の小説は砂川安太という医者から死を宣告した男の話である。出てくる舞台装置が、燐寸工場、省線、言問橋など東京の下町である。米軍の空爆で焼け野原になった写真しか見ていないので、当時の景色は知る由もないが、小説家の目に映る世界があったことは確かである。このまま独在論になるわけにもいかないので、頁を捲っていくことにしよう。
病院を出た砂川安太は義足の復員兵である。御茶ノ水の橋からの眺めは神田川である。投げ捨てたタバコの赤い火が深い谷底に落ちていく。時が進まないかのようだ。戦後の景色は知る由もないが、私が小さい頃に御茶ノ水駅のホームから眺めた記憶からしてそんなに変わらないのではないかと思った。
砂川安太が16才の時に言問橋の近くの河岸から身投げした。戦後の隅田川は今のように親水施設がなかったろうから、河岸からすぐ下を川は流れていたのだろう。遊歩道からでは身投げというより転び堕ちる。
こうして、暗い始まりから、物語は始まる。不可能からの出発はこの小説のテーマである。戦前・戦後と不条理な世界が当たり前に見えていた。今は日常性の中に埋没している。生きることに疲れた人々をリアルに描く筆致に感心しているうちに物語は突然終わりを迎える。
その日、ストに参加する前の砂川安太の食堂の女将への咄嗟の励ましの行為が新鮮に感じられる。安太の心臓が止む時、子供達のために買い求めたばかりな林檎が二つ転げ落ちていく描写は、余りにも映画的であるのでどこかで見たことがある気がした。
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