死生観を問われても答えようがなかった。

断片記憶

島薗進ゼミ「あなた自身の死生観のために――グリーフケアの向こう側」という東京自由大学のオンラインセミナーを聞いてみた。死生観を問われても死の想像力が欠けてしまっていることに気がついた。

宗教における死についての想像力は凄い。地獄を創造した時代は夜が暗かったのだろう。現代の昼のような都会の夜には霊を語りようもない。山の向こうにいけなかった時代ならともかく、移動の自由があり、人工衛星による観測が行われている時代に魂の行き場はない。

塵からできている人間は死ねば塵となる。土からできて土に帰るのは動的平衡である人間の本質である。

となれば、救いは来世にないので、宗教のもつある種の規範性が失われてしまう。種の繁栄のために個体は遺伝子を運び、時が許すまで新陳代謝を繰り返すことになる。利他の精神も宗教の大きな遺産である。利他は種の維持のためのルールなのだろうか。

島薗進氏の話を聞くと現代において死は厭わしきものであり、人目から隠され、語られなくなっている。しかし、生きている身は深い悲しみを避けられない。よりよく生きるためには何か精神を保つものが必要になるのだろう。死すべきものという悲しみを知ることは果てしなく生の力を奪うことだから。

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