浜松散歩

旅の時間

浜松に来たのはいつだったか忘れたが、観光したことはなかった。最初に来た時は北口が整備中でだだっ広かった。次に来た時はACT CITYができていた。

浜松駅に着いて、北口から地下に降りてバス乗り場へ上がる。バスターミナルには地上を歩いては直接行けない構造になっている。1番乗場から30系統のバスに乗り市役所南で降りる。地下道を通って反対側に渡る。浜松の街を歩くと地下道が多いことに気がつく。モータリゼーションの頃に作られたものだが、バリアフリーではないため、横断歩道に切り替えが進んでいるという。

浜松城は昭和33年に新天守(模擬天守)を建てた。野面積みの石垣は徳川家康の後に第二代浜松城主となった堀尾吉晴が造ったという。天守台の上に3階建、地下に井戸がある鉄筋コンクリート製の復興天守に登る。最上階から、360度の展望が得られる。三方ヶ原方面が北側から見えた。大手門跡は東海道に面して南側にあるが、市役所の建物があり見えない。徳川家康が武田信玄と戦っていた頃は天守はない。信玄が野戦に誘うくらいだから、樹々に覆われてよく分からないが、曲輪や空堀などもあり、簡単に攻略できるものではなかったのだろう。代々の城主の整備もあり、当時の状況は分からない。ちょうど天守台で発掘調査がされていた。バスで戻るものなんなのでACT CITYへ歩いて戻ることにした。

浜松市楽器博物館はACT CITYのDゾーンにあり平成7年に開設した。中は、1階と地階が展示スペースになっていて、楽器の演奏をヘッドホンで聴ける仕組みになっていた。1階の左手は第1展示室でガムランミュージックの楽器が並べられていて数に圧倒される。映像の説明を見ているだけでも、バリ島まで聴きに行きたくなる。右手奥の第4展示室の電子楽器にはRolandのSYSTEM-700が展示してあった。冨田勲が使ったことで有名になった国産アナログシンセサイザーは6つブロックを組み合わせると、縦91cm横176cm奥行30cmとどでかい。これにキーボードコントローラが付いて7ブロックからなっている。地階の第2展示室ではリュートなど弦楽器の音を聴きながら回り、第3展示室の鍵盤楽器のコーナーでは、技術の変遷が説明されていた。第2展示室にあったアフリカの楽器は素朴だが多彩という印象が残った。

さて、昼に近づいた。鉄道を潜って南側へ行く。浜松餃子で有名な「むつぎく」に向かうことにした。ロイヤルホストの裏側にあり分かりにくいと言われているが、そんな事はなかった。すでに15人くらい並んでいて、ちょうど前の人がオーダーを取られていた。私は中とオーダーした。私の後から並んだ組みは3つくらいまでオーダーを取りに来たが、そのあとは人数を確認されただけだった。

11時半前だが開店である。お一人様はカウンターへ順番に座る。段取り通りにしないとありつけない。調理場で鍋が三回転した後に、私の番が来て、餃子をいただけた。肉の入らない野菜餃子と聞いていたが、12個はなんとか食べられた。浜松ビールを飲みながら食べたいと思ったが、これから会議場へ行って4時間半ほど講演を聴く必要があったので、水で我慢した。ビールがあれば大も行けそうな気がする。ただ、味が変わらないので18個食べてどうするということはある。

講演を聴いて疲れた身体を癒すため、ホテルに荷物を置いて、千歳町へ行く。鰻料理あつみでよかったのであるが、落鮎の看板が出ていた店にした。カウンターが長い店で、予約席の間に通された。戻りカツオで喜久酔と正雪を飲んでいると、女性が一人できて、酒と海鮮重を頼んでいる。そのうち男性が入ってきて、同伴という事がわかる。すると右手隣もそうなるのかは興味があったが、落鮎を食べて引き上げたのだった。

注)ACT CITYは平成3年着工で平成6年から7年にかけ落成した。してみると、昭和の終わりと平成の最初に来てから、平成の半ばと平成の終わりに来たことになる。

注)浜松城は徳川家康の命名である。それ以前は曳馬城と呼ばれていた。信長もの読むと、徳川家康は岡崎殿と呼ばれていたが、嫡子信康に岡崎城を譲ってからは、浜松殿と呼ばれていたことを思い出す。

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