『和菓子の京都』川端道喜

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川端道喜『和菓子の京都』岩波新書、1990年

十五代川端道喜(1990年死去)の著

序章 京都人気質入門ー祇園界隈

いきなり本題に入るのはやぼというわけで、祇園から京都を語ります。祇園の街の地図(5頁)を見るとこの本の書かれた当時(1990年)が思われます。

第1章 道喜の粽語り

川端家の職業の肩書に御粽司(おんちまきし)というように御がつくのは「御所御用」という意味だそうです。

「粽のルーツ」は中国の屈原の故事にあるのというのが定説のようですが、屈原が汨羅(べきら)に身を投じた命日である五月五日に粽をそなえる故事は日本と中国で異なるといいます。

日本の説話は「汨羅に身を投げた屈原の霊を弔うために、彼の姉や村人たちが米を投げ入れるんですが、淵には大きな魚がいてその米を食べてしまう。だから霊がうかばれなくなるというんで、粽をそなえる」(24頁)に対し、中国の故事は「屈原が魚にたべられてしまうから追っ払うために、つまり厄を逃れるために、水辺に生えている草とかで米を包んだり、あるいは竹筒に米を入れて、粽のようなものにして流す、それで霊がうかばれるという」(同)ように異なっています。粽と屈原の話は他で読んでも似たようなものです。

「光秀の真実」は笹食い将軍という俗説がありますが、この笹は道喜の粽かどうか詮索してもしかたがないようです。

「餡をめぐる冒険」餡の問題は小豆の質の問題という認識です。「今のはまったく香りのない、大量生産された小豆」といいます。また、小豆の特質に合わせるため、機械ではなく、勘で手作業で餡を炊くその火加減に話が及びます。

「親から受け継いだこと」祖父との餡炊きがの話が、「それっ!」「今や!」という祖父の掛け声とともに生々しく語られます。「祖父に習った事が、どれだけ大事かをいま噛みしめています。薪で餡を炊けない現在、何の役にも立たないようにも見えますが、いかに世の中が変わろうとも、職人の材料の吟味や製造の過程における気構え、細心の注意と骨惜しみのない努力は、変わらぬ必須の条件と反芻しているのです。」(58頁)

第2章 葩餅、肴から茶菓子へ

御所の鏡餅の菱葩の葩という薄い餅が葩餅として伝わったと考えているようです。葩餅を作る話は苦労の連続のようです。なぜ葩餅を茶道の家元に主力を置いて、一般の人にあまりすすめないか。持ち帰る途中で、餅皮が破れて味噌が流れるからだそうです。家元は業躰さんが運ぶのに慣れているからだといいます。食べる方の苦労の話になります。「御懐紙に包んで、端を少し折り曲げて、口元を隠して、そのままかぶって食べ」(82頁)るのが失敗の少ない召し上がり方だそうです。

第3章 宮中の歳時記、茶の湯の四季

川端家の御用も明治天皇の東行で大きく変わります。明治4年の『月々御定式御用控』により、1年の歳事を振り返ります。お金の話が面白い。『御用記』には金額が書いていない。盆暮の支払時期に予算に応じて払われたらしい。 払えないものは献上扱いになったといいます。

第4章 京菓子の生活文化

茶の菓子としての京菓子の歴史を述べています。利休の時代は武将の茶であったものが、力をつけた町人も参加するようになる「茶の湯の大衆化」で京菓子が生まれたと見ているようです。「本来茶菓子というのは、茶屋の隣りにある水屋で客数に合わせて亭主が作るべきものだったのが、そのうちに菓子屋をよんで水屋で作らせるように」(128頁)なったといいます。

茶道も明治の初期に京都の人口が激変することで衰退します。京の菓子屋も生き残りのため共同で「御菓子券」を発行するなどしたと書いています。この商品券のようなものは、菓子券を売った時点でお金がはいるけど、菓子券をもってやってくる人にお金をもらわずに菓子を作って渡すので、夜逃げ詐欺などがでて結局は失敗に終わります。

著者は「京菓子の場合、茶道との関係で、最初は武家に、そのうちに町人のなかに浸透して大衆化した」(147頁)とみています。茶の湯が男性から女性に移って領域が拡大したことが和菓子お需要拡大につながったというわけです。ここでは豊かな生活とは何かいうことを考えさせられます。

第5章 御所、幕府そして川端家

御所の西の「六丁衆」という町衆との関わりで川端家の歴史を述べています。六丁衆の歴史も明治になり御所がなくなるとともに終わることになります。

川端家が御所と関わりを持った御朝物(おあさもの)の献上の話や、千利休との交流の話がありました。信長や秀吉との関わりで著者は独特の解釈をしており面白いと思いました。歴史家がここまでフォローするといいなあ。

江戸時代は東福門院に可愛がられたそうです。東福門院下賜の品々の説明が189頁から192頁にかけてあります。そういえば、建礼門の東隣りにある「道喜門」については、門の写真と家伝である『家の鏡』の由緒書きのところの写真を176頁に載せているだけで本文では説明していないところが京都人らしさでしょうか(注)。明治になって天皇が東京に行ってしまい、皇室というパトロンを失ってしまい、茶道の方に入り込んでいくことになります。

終章 伝統をこえて

楠本健吉氏や荻昌弘氏などとの交遊の後、京の職人気質に触れています。「京都の老舗で家訓がズラズラッとあるというのは、直接製造にかかわっていない、つまり職人でない大店です。菓子屋にはそういう家風というのはそんなにないというのが当り前で、めったやたらに家訓をつくってしばりつけると、むしろかえって早く崩壊するんじゃないかと思うくらいです。」(205頁)

川端家の申し送りは、「品物を吟味して濫造せざること」(同)だそうで、「けっしてたくさん作るなという意味ではなく、乱れた作り方をするなという意味」(同)なんだそうです。合理化を否定してはいません。伝統についての話で終わります。

「私は伝統というものが、必ずしも昔のままであることに固執しなければならんというものではないと思っているのです。ある程度、その時代の背景にのっていかなければなりません。一番大事なことは、いかに自分をいつわらずに生きていくか、いつわらない商売をしていくかということだろうと思います。」(206頁)

(注)

『京都御所西一松町物語』(杉山正明、日本経済新聞社、2011年)を走り読みしていたので、川端道喜の話しは知っていたけど、著者は自慢噺にしたくない書きぶりです。

大垣書店 70周年記念「私のお気に入り私の一冊」で末富社長の山口富蔵氏が「少し旧刊ながら、スウィーツばやりの現代で「京」の御菓子を知るのに最も重要な本です。京の伝え育んで来た御菓子という文化「食物を越えた文化」を知るのに役に立ちます。特にお菓子を仕事とする人々には、和洋を問わずに必読です。」と推薦してました。そこで、Amazonで購入したしだい。

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