中村武生先生の「平安京の大路小路をあるく第11回 二条大路、その1」(2014年5月11日(日)10時~12時)に参加する。
もちろん、二条大路はすでになく、一部分が二条通と重なっているに過ぎない。平安京で朱雀大路に次いで広かった二条大路を現在の二条通を歩きながら幻視するのである。
東京極大路から二条大路を西へ向かう。ということで、寺町御池を上ったところで、東京極大路が寺町通の西側の区画の真ん中を通っていたという説明があり、寺町二条で摂政兼家の二条京極第が平安京外にあったという話をして、二条通を西に向って歩き、堀川通を渡った冷泉院の跡地に家康が二条城を建てたという話で終わる。
二条大路は巾が17丈(51m)あった。現在の道からは想像がつかない広い道だった。この話には落ちがある。
摂政兼家の二条京極第の新造祝に春宮大進の源頼光が馬30匹を献上した話がでたが、朧谷壽氏の本がネタ元である。当時の馬をスーパーカーと説明する中村先生の年代である。
ハイライトは「二条大路の三邸」である。東三条院(兼家)・閑院(兼通)・堀河院(兼通)の三邸を前にして中村先生のトーンもこころなしか上がる。東三条院の兼家が西に向うのがポイントで、兼通の堀河院を過ぎて内裏へ(中村先生の説明では千本出水)向ったと知った兼通が病気を押して内裏へ向かい、最後の除目を行い後継者を決めたという話。昔の御所は今の御所と違い西側にあったとことは忘れがちだ。
兼通・兼家兄弟の争いの最後のエピソードは角田文兵衛編『平安京提要』にも載せていない瑣末なエピソードという。朧谷氏も除目の結果は史実だが、兼通の病気を押して参内云々は確証がないという。
東三条院は中村先生の事務所が入っているマンションがあり、先生は気を良くして入ったところ、何んと場所は二条大路の中であったという。17丈(51m)の話の落ちでした。
閑院の石碑の説明板は、西洞院押小路を西へ入ったところにあり、風化が進んで読みづらい。注目すべきは「豊臣秀吉妙顕寺城跡」の石碑である。秀吉は聚楽第や伏見城も天皇の跡地を城としている。意図があったと中村先生は説明する。なお、町の掲示板に古城町(ふるしろまち)との町名が残っているのが興味深い。
京都国際ホテルの北口で、恋舞妓の撮影一行に出会う。紗月さんを先頭に東側から歩いて来た。ちょっとおいて紗千穂さんも続いて来た。紗千穂さんに声を掛けられて嬉しくないはずがない。中村先生も何時ぞやそのような経験をしたとお話をしてくれた。
中村先生に教えていただいた「花の都」は参考になる。
花の都
二条大路
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