名和達宣氏は西田幾多郎の「場所的論理と宗教的世界観」から「他力」を論じているところを書き出していた。そこを読み直そう。
以下は、「場所的論理と宗教的世界観」『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』(岩波文庫、1989年)を引く。
「神とか仏とかいうものを対象的に何処までも達することのできない理想地に置いて、これによって自己が否定即肯定的に努力するというのでは、典型的な自力である。それは宗教というものではない。そこには全然親鸞聖人の横超(おうちよう)というものはない。最も非真宗的である」(P342)。
「禅宗では、見性成仏(けんしようじようぶつ)というが、かかる語は誤解せられてはならない。見といっても、外に対象的に何物かを見るというこのではない、また内に内省的に自己自身を見るというのでもない。自己は自己自身を見ることはできない。眼は眼自身を見ることはできないと一般である。然(さ)らばといって超越的に仏を見るというのではない。そういうものが見られるならば、それは妖怪(ようかい)であろう。見というのは、 自己の転換をいうのである。入信というと同一である」(P356)。
「如何なる宗教にも、自己の転換ということがなければならない、即ち回心(えしん)ということがなければならない。これがなければ、宗教ではない。この故に宗教は、哲学的には唯、場所的論理によってのみ把握せられるのである」(P356)。
「その源泉を印度に発した仏教は、宗教的真理としては、深遠なるものがあるが、出離的たるを免れない。大乗仏教といえども、真に現実的に至らなかった。日本仏教 においては、親鸞聖人の義なきを義とすとか、自然法爾とかいう所に、日本精神的に現実即絶対として、絶対の否定即肯定なるものがあると思うが、従来はそれが積極的に把握せられていない。単に絶対的受働とか、単に非合理的に無分別とかのみ解せられている。私はこれに反し真の絶対的受働からは、真の絶対的能働が出て来なければならないと考えるのである」(P369-370)
「仏教に於ても、真宗においての如く、仏は名号(みようごう)によって表現せられる。名号不思議を信ずることによって救われるという。絶対者即ち仏と人間との非連続の連続、即ち矛盾的自己同一的媒介は、表現によるほかない、言葉によるほかない。仏の絶対悲願を表すものは、名号のほかにないのである。(省略)絶対者と人間との何処までも逆対応的なる関係は、唯、名号的表現によるのほかにない」(P374)。
これは自力では読めない。「場所的論理と宗教的世界観」を上記を意識して読み直すことにしよう。
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