『奈良歴史研究』第93号

読書時間
河内将芳「秀吉生母大政所の病と畿内近国の寺社」、奈良歴史研究会『奈良歴史研究』第93号 2022年6月10日
ISBN番号はあるがバーコードがない雑誌を取り寄せてまで読む気になったのは、河内将芳氏が『朱』第64号 2021年で「秀吉生母大政所の「御煩」と伏見稲荷社」を書いていたからである。河内将芳氏の『大政所と北政所ーー関白の母や妻の称号はなぜ二人の代名詞になったか』(戎光祥選書ソレイユ、2022年)の元となった論文を読みたくなったが、伏見稲荷は遠いので、奈良歴史研究会の方を読むことにしたのである。
本の参照文献には2022年掲載予定となっていて、内容的には本に取り込まれている。
天正16年(1588)6月秀吉生母大政所の病気本復祈願で13箇所の寺社に一万石が下された。しかし、「問題の一万石は、寺社側の裁量で使途がきめられるものではなく、いわば「紐付き補助金」のようなものだった」(p.2)という。ここでの着目点は「中世権力は、その施策の第一として仏神の興行をかかげ、それをみずからの正当性の根拠としていたことが知られている」(p.3)。それに対して「秀吉とその政権による施策が質を異にするものであったことはあきらかといえよう。天下国家のためではなく、特定の親族の病快復のためにその目的が特化しているからである」(同上)。権力のあり方についてはそのような見方があることを初めて知った。
こうして、大政所が快復したことにより大政所吉例として、秀吉による立願は弟の羽柴秀長が病となったときにも行われた。
天正20年(1592)に大政所が死ぬときは、秀吉が肥前名護屋にいて、関白秀次が代わって立願したが叶わなかった。
文禄3年(1594)に大政所のために高野山に剃髪寺「青厳寺」を建立したり、東寺の塔供養がおこなわれた。
その後、文禄4年(1595)7月に秀次事件が起こる。
そのことが大政所の月命日の9月22日に大仏千僧会を催すことを直前になって急遽変更し、「太閤様御先祖之御吊」の法事の対象から大政所を外して、「祖父祖母」を対象として9月25日行われた理由であるという。「文禄四年11月以降、隔月で25日と29日に行われることになる」(p.11)とあるので10月はどうなっていたのか気になった。論文の参照先の『秀吉の大仏造立』(2008年)の大仏千僧会一覧(p.67)を見ると10月25日に行われており、11月29日、12月25日と続いている。
「天正16年に大政所の病に直面し、それをきっかけにして大政所をみずからの家の祖と位置づけ、畿内近国の寺社に病快復や追善とからめたモニュメントとしての建造物「造営」をすすめてきたいっぽうで、同じく大政所の血をひく秀次とその一族を謀叛人として成敗してしまったため、大政所を「太閤様御先祖」と位置づけ、その「御吊」をおこなうことには問題があると秀吉とその政権が直前になって気づいたということがあったのであろう」(p.13)。
大村由己による『関白任官記』は、秀吉の「祖父祖母」を萩中納言と申した人々とし、その娘を大政所としてる。大政所が禁中に宮仕して下国後に秀吉が誕生したとする。いわゆる秀吉皇胤説であるが、「太閤様御先祖」の御吊を「大政所」とするより「祖父祖母」とした方がこの言説とも都合がよいという(p.12)。
秀吉の病気平癒の立願は北政所が行ったが、慶長3年(1598)7月は秀頼の立願となっている。しかし、「大政所吉例」は効果がなく、8月18日に秀吉は病没した。この辺りは『秀吉の大仏造立』(2008年)では善光寺如来の遷座との関係が詳しく書かれていた。
「祖先祭祀として「太閤様御先祖之御吊」を目的とする法事は、家の正当な後嗣が「御拾」であることを毎月確認しつつ、およそ二十年にわたり、大仏経堂において、新儀の八宗によりとりおこなわれることとなったのである」(p.13)。大仏千僧会は秀頼が滅びるまで規模を縮小しながらも続いたのであるが、これも『秀吉の大仏造立』の方が詳しい。
大仏千僧会を通して秀吉の「孝養」の意味合いが深まった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました